映画『トイ・ストーリー4』ネタバレ感想。人の価値観=おもちゃの価値観、ではない。

原題:Toy Story 4
2019年の映画
おすすめ度:☆☆☆

【一言説明】
評価真っ二つの問題作。

トイ・ストーリー4 ボー

不朽の名作『トイ・ストーリー』シリーズの最新作を鑑賞。誠に遺憾ながら吹替え版です。地元映画館=略してジモ館ではなんと字幕版がやっとらんのです。キッズ向けだからかなあぁ。
唐沢氏演じるウッディは、声がイケメンすぎてこれじゃない感があるんです。頼りがいのある感じになってしまうのです。ウッディと言えば、やはりトムハンクス氏。あの絶妙に緩くてちょっとお間抜けな感じはハンクス氏にしか出せないのだと思う今日この頃です。

※ちなみにエンドクレジットの最後に映像はないので、よい子のみんなは安心してくれたまえ!

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あらすじ

ウッディボニーのおもちゃとなってから二年が過ぎた。平穏な日々の中で、ボニーのお気に入りになれなかったことに寂しさを感じるウッディだった。
そんなある日、幼稚園のプレスクールに参加したボニーは、ゴミ箱の中にあった先割れスプーンを使って自作のおもちゃ『フォーキー』を作り出す。新しい環境に馴染めない彼女にとって、フォーキーはまさに心の拠り所だった。
だがフォーキー自身は自分をゴミだと思い込んでおり、家族旅行に出た先で突如車を飛び降り迷子になってしまった。
ボニーのため、自分も車から飛び出しフォーキーを探し始めるウッディだったが、その先には驚くべき出会いが待っていたのだった……。

感想

まさに完璧という言葉がぴったりだった前作。
第一作から提示されていた、『子どもが大きくなって不要となったおもちゃはどうなるのか』という問題に、『彼らを必要とする別の存在に引き継がれる』という素晴らしい答えが与えられました。
別れはほろ苦い。けれど胸を張って成長したアンディを見送るウッディたち。これからはお互い別の場所で、それぞれの日々が続いていく――。

正直、この完璧なラストに続編などいらないのではないかと危惧しておりました。何を作っても蛇足になりはしないかと。それはクリエイターの方々も十二分に承知していたでしょう。けれど、それでも不安を押しのけて語りたいことがあった。だから『4』が世に出て来た。

ならばファンとして見なくてはなるまい。

そして見に行った結果、

その選択自体はありだと思うが、心からの賛同はできませんでした。

 

※以下ネタバレです。結末に触れているので、未見の方は注意。

 

 

九年前に別れたボーと出会い、彼女に感化され、自ら『迷子のおもちゃ』になることを選んだウッディ。
最初は「はあ?」と思ったんです。ウッディの選択があまりに唐突なように映ったから。
今までの流れから行くと、彼がボニーの元へ帰らず、ボーと残る選択に傾くようには見えなかった。外に広がる無限の世界に憧れたようにも見えず、靴の底に書かれた『Bonnie』の文字に自ら背く決定的な理由があるようにも思えなかった。
ならばボーの存在が大きすぎたせいなのか。彼女といたいがために、迷子になることを決めたのか? ……そうとも思えない。
だから劇場でエンドクレジットが流れたときはひたすら困惑した。ウッディはあまりにも突然心変わりしたように思えるし、バズやジェシーが引き止めもせず、あっさり彼の選択を受け入れてしまったからだ。

今生の別れだぞ?
知能はあれどボニーの家の番地すら知らない彼らに、再会の道があるとは思えない。しかも冒険に参加したバズはともかく、ジェシーやほかのおもちゃたちは一晩車で待っていただけ。なのにああもあっさり「出ていく」と言うウッディを見送れるものなのか? 「いやいや、お前突然どうしたんだ」とせめて真意を尋ねることくらいはするだろう。なのにすべてを達観したような表情で「無限の彼方に」と両者が言うことで、どこか感動を無理やり醸し出す風で終わってしまう。

なんだこりゃ。

ぽかーんとするのも無理ならざることではないだろうか。
本作はアメリカ本国では大絶賛だが、日本ではYahoo!映画大先生の評価が3点未満になるなど大荒れだ。
何故なのか?

答えは単純だ。
描き方が下手だから。

キャラクター性というものをとても大事にする日本人に、ウッディが決断を下すまでの納得のいく道筋が提示できていないせいだろう。

ウッディの選択がそもそも受け入れられないという人も多いと思う。前三作で散々描かれた『おもちゃの本分は子どもを幸せにすること』に反しているから、突然ちゃぶ台をひっくり返された気分になるのも当然だ。しかもウッディは、持ち主もそうだが仲間のおもちゃとの絆をとても大事にしていて、それを捨ててまで出ていく人物だとは思えないように描かれてきた。
そして極め付けが『3』と『4』の間に作られた短編作品だ。その中でウッディ含めバズたちおもちゃは、やんちゃなボニーにそれはもう幸福この上ないやり方でめいっぱい遊んでもらっているのだ。映画だけを追っていた観客はまだしも、短編にも目を通した人々は、本作のウッディの不遇にのっけから違和感を覚える作りとなっている(ボニーは女の子だし、ウッディよりも同性であるジェシーを気に入るのは無理もないとは思う)。

では、この結末がまったくの間違いかと言うとそうではない。筆者にはありだと思えた。見終わった直後は納得いかなかったが、時間が経つと「あー、なるほど」と感じることができた。
ウッディにとってはアンディこそが特別であり、ボニーはそうではなかった。要するに、幸せのピークを越えてしまったのだ。
ウッディの中で少年アンディは永遠の存在であり、もう誰も彼を超えることはないし、ウッディもそれを望まない。どれほどの時をボニーと過ごそうとも、アンディとの関係のようにはなれないことを、ウッディは痛感してしまったのだろう。
つまり彼は、最早ボニーのおもちゃではない。いや、ボニーだけではない。『おもちゃ』ではなくなってしまったのだ。

おもちゃを引退したおもちゃ――いわば『死』とも表現できる変化が起こったウッディ。ボーにも同様の変化が起きている。彼女はモリーの特別だった。だが女の子は精神的成長が早いから、ウッディよりも早くその時期が来てしまった。
以前と違い、彼らは誰かのおもちゃになることに幸せを見いだせなくなってしまった。だから新しい世界へと出ていく。迷子になっている他のおもちゃたちを助け、広い世界を見て回るために。

映画を思い返してみると、ウッディが旅立ちを決意する伏線となるシーンはいくつかあった。
フォーキーとともにキャンプ場を目指して歩いているとき、おもちゃのなんたるかを語るウッディは、そこでボニーの名前をアンディと言い間違えている。彼にとっておもちゃのあるべき姿を思い起こさせるのは、ボニーではなくアンディなのだ。
そしてギャビー・ギャビーが語る「私も誰かの特別になりたい。あなたはもうその経験があるでしょう?」という言葉。それはつまりウッディは経験をしてしまった=今はもう特別ではないという意味であり、このシーンこそが彼に旅立ちを決意させたのではないかと個人的には思う。

だがしかし。
それは後になってよく考えてみれば、の話だ。
映画というのはやはりその場に臨んでいる瞬間に理解できなくては意味がないのではないか。後に考察し、「ああそういうことだったのか、へー感動」では失敗だと思うのだ。
制作陣は今回の結末を観客に受け入れてもらえるかどうか不安だったと言う。そして慎重に慎重を重ね、物語を構築していったと。

……慎重すぎたのではないだろうか。

製作側のためらいが反映され、上手く物語に活かせなかったばかりに、終盤の唐突感を生む結果となったのではないだろうか。もっと堂々とウッディは出て行くしかないんだと話の中で主張してくれてよかったと思う。
冒頭でレギュラーに選ばれず落ち込むウッディ。あそこでもっと「アンディの時は……」「アンディだったらな」とウッディに連発させて、日ごろからアンディへの未練を周囲にもわかるほどに炸裂させていたんだろうなと思わせてくれたら、最後に仲間たちがあっさり決断を受け入れたことも納得がいっただろう。
全体的に、『3』を覆す決断を提示するには説得力が欠けていたのではないだろうか。

 

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さて、ウッディの選択は一応『あり』だと書いたが、筆者としては感覚面ではもやもやが残りまくっている。『シュガー・ラッシュ:オンライン』のときも思ったのだが、人間でない存在を人間の価値観で描きすぎてないか、という点だ。

今回の発想が生まれた背景には、表現は変だが「おもちゃの人権を大事にしよう」という倫理観があるのではないだろうか。
「成長したアンディを見送ったウッディには何が起こるのだろう?」
これが本作を作るきっかけだったそうだ。つまりクリエイターたちには、環境が変わったウッディには変化が起こってしかるべしだという意識があったのだろう。ウッディには意思があるのだから、それは絶えず変化するのが当然で、よりよい方向に進むべきだと。
人間ならそうだろう。けれど、ウッディはおもちゃなのだ
人が人のために作った産物で、人の環境をよくしようと生み出されたもの。だからその人格が人に尽くすための自己犠牲の精神に溢れているのも当然だろう。
そんな彼らが持ち主に対して優劣をつけるか?
果たしてボニーよりアンディがよかったと昔を懐かしむだろうか?? そこが疑問なのだ。

たしかに今の時代に無償の愛というものは、いかにも不平等に映るだろう。おもちゃは子どもと遊ぶのが幸せなのだから、不遇にも黙って耐えるべきだなんておかしいと言われれば、ぐうの音も出ないのは事実だ。
だがそれはあくまで人の感情だ。おもちゃは人間ではないのだから同じ価値観で測るべきではないし、彼らを必要以上に人間化してしまうことこそ、おもちゃに対する冒とくではないのか。

変わらないものがあっていいはずなのだ。
親の子どもに対する愛情と同じように、おもちゃの子どもに対する愛情は無償であり、神聖であるのだから、そこに土足で踏み込むような真似をするなというのが筆者の意見だ。
三作目まではおもちゃのための物語であったものが、『4』ではおもちゃの行く末に罪悪感を抱えた人間に対する救済の物語になってしまった。おもちゃの口を借りて人の願望を語る――それこそ人間のエゴというものではないか?

おそらく『3』まで関わり、『4』で離れた製作者にはわかっていたのではないか。これ以上の話を書こうとすれば、おもちゃはおもちゃでなくなってしまうということに。『トイ・ストーリー』ではなくなってしまうということに。
だからこその「ウッディの話は本作で完結する」という発言なのかもしれないが。

否定的な意見を書いたが、『役目を終えたおもちゃ』たちの行く末としては、ボーの決断は希望が持てるものだったのではないか。
子どもの頃にいなくなったおもちゃはどうなるのか聞いたことがある。答えは「おもちゃの国に行った」だった。世界のどこかにおもちゃだけの国があり、そこではいなくなってしまったおもちゃたちが幸せに暮らしているという。
そんな国も素晴らしいが、自由になったおもちゃたちが、気の向くままに世界を旅している姿を想像するのは楽しい。
ただあくまで『役目を終えた』おもちゃであり、自分から持ち主の元を離れたおもちゃではないのだが。

それがエゴだという人もいるだろう。実際そうだ。
だがとっくに大人になってしまった筆者にも、昔に遊んだおもちゃたちのことを思い出させてくれる機会をくれた本シリーズは、本当にすばらしいものだったのだと再認識させられる。
監督とスタッフの方々に心よりの感謝を申し上げたい。ありがとうございました。

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